専大ホッケーの歴史

 チームの歴史とは何か。それは言いかえるなら、その時代その時代の『選手の夢』といってもいい。 その時々の選手がどんな夢を持ち、どんな取り組みをしたか・・・・ それが歴史であり伝統である。
 この専大ホッケーの歴史のはじまりも1人の選手、佐々木雅彦の熱意と情熱によってはじまった。 高校時代、鳥取国体のホッケーのメンバーだった彼は、専修大学2部(夜間)の経済学部に入学。 当時もちろん、専大にホッケー部は無かった。彼は「自分でホッケー部を作ろう」と決意。 2年生になり、1部(昼間)文学部に転部したことをきっかけに、1人で体育会本部に出向き、説明を受け、1人で出店をだし、メンバー集めを始めた。 当時は現在のように体育会傘下でもなく、サークルという形でスタートだった。まさにゼロからのスタートである。 ちょうどその年、彼の後輩で同じ八頭高校ホッケー部出身の奥本啓介が入学、そして3年生で専大の北海道短大から編入してきた熊谷大輔、斎藤斉が入部した。 他にも、奥本の友人の中矢優一郎、本田宗治、さらに他にも数名が入部し、1年目は9名で専大ホッケーはスタートする。 発足当時の練習は大変なもので、場所は和泉多摩川の河川敷や稲田堤の河川敷で行い、練習の際の人数も1人で練習することや、多くても5人といった状況だった。 そんな中、初の練習試合を東大との間で行った。メンバーを、専大以外からも集めなんとか臨んだ初試合は2−0という結果だった。 そして、その年の夏9名の部員と初代監督である坂尻昭宏監督の総勢10名は、熊谷の地元でもある伊豆中央に行った。その年の秋には、立教大とも練習試合を行う。 また、初めての総会が行われたのもこの頃であった。翌年の3月には生田会館にて、新入生勧誘に向けての相談のための合宿を行った。 しかし、当時は部員同士の意識の違いから衝突する事もあった。
 部員同士の確執を埋められぬまま、新年度を迎えた。それでも10名を超える新入部員を集めることができた。チームを結成する人数を揃えることができ、秋季から関東学生リーグに初参戦するに至った。しかし、ほとんど練習は行わず、わずかながらの夏合宿を行うにとどまり、ほとんどぶっつけ本番で臨んだリーグ戦では、初戦の木更津高専戦での0−9をはじめ、5戦全て大差での敗戦であった。それでも、最終戦の農工大戦では、この年の新入部員で後に監督を務めることとなる有馬哲朗がチーム初得点をあげるなど、わずかながらも今後への明るい兆しが見え始めた。そして、リーグ戦終了後に参加した全日本学生選手権(当時はフリーエントリー)において、関西学院大学に0−1と健闘することができた。このインカレでの自信が今後のチームの在り方についての大きな転機となった。 その後、練習日も週5日となり、出席率も毎日ほぼ全員が出席するようになり、チーム力は飛躍的に向上し、次に迎えた春季リーグ戦では、武蔵大学から3−0にて初勝利を収めるまでとなった。 しかしながら、チームの士気は昨年、一昨年とは比べものにならないほど高揚したにもかかわらず、練習環境は何も改善されず、ホッケー場はおろか、ゴールすらも使えない、児童公園の片隅での練習がほとんどであった。そのような環境の中でも、翌年は年に6回にもおよぶ合宿等により着実に実力を高めていき、インカレ関東予選では一橋大学を破り出場権を獲得することができ、さらに翌年は、2部準決勝(たすき掛け)まで進出し、1部昇格が現実味を帯びはじめてきた。またこの年では、有馬哲朗と五味孝晴の2名が専大で初めて東西対抗のメンバーに選出されるなど、関東リーグにおいても注目される存在となりつつあった。 そして、翌々年の平成8年には、立教大学OBの笹生を新監督に迎え、主将賀川を中心に2部リーグを全勝で乗り切り、さらに、入替戦で東海大学を1−0で破りついに念願の1部昇格を果たすことができた。また、この年には、念願であった本学体育会への昇格も果たし、大学においても当会の存在が認められ、また、関東学生連盟の副委員長を鈴木浩二が務め関東リーグにおいても十分に認知されるようになった。平成2年佐々木雅彦がチーム作りをはじめた頃の夢は、創部から7年でついに現実のものとなった。
 佐々木雅彦の熱意と情熱を結実した専修大学のホッケーチームは現在の“専修大学体育会ホッケー同好会”であり、夢の実現を目指すその創立当時のスピリットは10年を経過した今も脈々と受け継がれている。

(敬称略)

創立10周年記念パーティー

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